『人生を照らす禅の言葉』

臨済宗円覚寺派管長、横田南嶺

《法遠(ほうおん)去らず―あきらめない、やめない、ここを去らない》
浮山(ふさん)法遠禅師は、葉県(せっけん)禅師の弟子である。この葉県禅師こそ、まさしく「厳冷枯淡」、人情のかけらも許さないほどに厳しい家風で鳴り響いていた。その禅師のもとに、若き法遠は修行に出かけて入門を請うた。

古来禅門では容易に入門を許さない。今日でも「庭詰(にわづめ)」と称して、玄関先で何日も頭を下げ続ける。まして厳しさで有名な葉県禅師のこと、幾日も入門を願うも許されない。雪の舞うある日、ようやく葉県禅師が現れるや、僧たちに頭から水をぶっかけた。たまりかねた僧たちは、みな去ってゆくが、法遠は「私は禅を求めてまいりました。一杓の水くらいでどうして去りましょうか」と、留まって、初めて入門を許される。

ある時、法遠が典座という、料理の係りを努めていた。葉県禅師の「枯淡」ぶりは想像を超えており、みんなは飢えに苦しんでいた。師の葉県禅師が出かけたのをよいことに、法遠はみんなのために特別の「油麺(ゆめん)」をご馳走した。ところが、ようやく馳走のできた、まさにその時、葉県禅師が予定より早く帰山された。烈火の如く怒った葉県禅師は、「油麺」の代金を法遠に請求し、さらに三十棒くらわせて、寺から追い出した。

法遠の道友たちは、かわるがわる師に許しを請うが聞き入れられぬ。せめて外から参禅でもと願うが、これも拒否された。法遠はやむなく町を托鉢(たくはつ)して「油麺」の代金を賄(まかな)う。ところが葉県禅師が外出すると、法遠が寺の敷地に居住しているのを見て、さらにその家賃も納めよと迫る。容赦のない仕打ちだが、法遠はそれにもめげずに、町をひたすら托鉢する。

ある日、葉県禅師が町に出ると、黙って風雨に耐えて托鉢する法遠の姿を目にする。そこで初めて法遠こそ真の参禅者だと言って、寺に迎えて、自らの後継者とされた。今の時代なら考えらえないような酷い仕打ちである。それでもひたすら耐えぬいた法遠の志を貴んで、「法遠去らず」という逸話として伝えられている。

古来禅の修行は行雲流水などと言われ、自由自在に師を求めて行脚(あんぎゃ)をした。それも大事である。しかし、どこにいても、その師や道場の欠点ばかりを目にしていては、ものにはならない。葉県禅師など実に酷いと思われるかもしれない。禅宗の老師はよく理不尽なことを言いつけて修行僧を困らせる。

しかしながら、世の中を生きていくには、道理にかなう事ばかりではない。「なぜ、こんな目に遭うのか」と悲憤慷慨(ひふんこうがい)することもある。しかし、人間の真価が問われるのは、むしろそんな時であろう。去る時の弁解はいくらでもできる。しかし、一言も発せず黙して忍ぶ事の尊さを知らねばならない。自然の災害なども然り、なぜこんな目にと問うても、道理などあろうはずもない。それでも人はそこで耐えて生きねばならない。

《閑古錐(かんこすい)》という禅の言葉がある。「使えなくなった錐(きり)のことだ。切れ味の悪くなった錐は、道具としては役に立たない。しかし、長い年月をかけて、穴をあけ続けてきて丸くなった錐には、ただ鋭いだけの錐にはない、円熟した魅力がある。禅では、真の修行者のことを閑古錐という」
かつて連合艦隊を率いて、日本海戦で、当時最強のロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎は、沈黙の提督と言われた。しかし、若い頃は軽口をたたいては、おしゃべりする軽々しい男だった。だが、それでは指導者にはなれないと、自らを戒め、鈍(にぶ)くて重みのある寡黙な提督となっていった。そして、終生目立つことを嫌った。

昨今は、鈍(にぶ)いことを嫌う傾向がある。それは、鈍(どん)くさいとか、鈍間(のろま)であるとか、鈍感だとかいう言葉で表される。しかし、「鈍い」の反対の「鋭(するど)い」ことは決していいことではない。鋭すぎて、人を傷つけたり、理屈をいって行動が伴わなかったり、人のアラばかりが見えてしまう。理不尽な仕打ちや、災いに出会った時は、鈍さがむしろ救いとなる。

アルコール、除菌、マスクの仲間の勉強塾より