『「人生がうまくいく」48の物語』

中井俊已

人気作家、浅田次郎さんのお話です。浅田さんは、小学校の頃から小説家を目指していた人です。そして愚直なまでの努力を積み重ねて、その夢をかなえた人です。高校生の時、同じく小説家を目指す心から尊敬する先輩に「お前は才能がない。小説家にはなれないよ」と言われます。ショックでしたが、才能がないのは、その通りだと思ったそうです。

それでも、その先輩の教えの通り、原稿用紙に憧れていた三島由紀夫の小説などを書き写す修業をしていきます。大学には行かず、職を転々としながらも、その修業を続けました。実質3時間以上は、毎日机の上の原稿用紙に向かったそうです。その一方で、書いた小説を様々な文学賞に応募しますが、ことごとく落選します。その間に、書いては煙と消えた原稿用紙は何万枚にも及ぶそうです。

そういう生活を10年以上続けていました。彼が30歳を過ぎたころ、ようやく二次選考に作品が残りました。うれしくて、うれしくて、飛び上がって、その出版社の前まで行って手を合わせて感謝したそうです。哀れ、その作品も結局ボツになるのですが、その小説の主人公の名前が「浅田次郎」。それ以来、彼はこの名前をペンネームにします。

自分の作品がはじめて活字になったのは、35歳のとき。はじめての単行本が出版されたのが、40歳のとき。小説家を志してから悠に30年もかかったのです。ですから、いままでまったく相手にされなかった大手出版社から、エッセーの連載の話が飛び込んできた時には素直に信じられず、借金取りが自分を誘い出すワナだと本気で疑ったそうです。
しかし、その後、『メトロに乗って』で吉川英治文学賞受賞。『鉄道員』で直木賞を受賞。いま最も人気がある作家のひとりとして活躍中です。

浅田さんはずっと「小説家になりたい」という夢をあきらめませんでした。書いた作品が、落選しても、落選しても、書き続けました。やはり才能がないのかと落胆する日も書き続けました。あきらめずに続けたからこそ、自分の夢をかなえられたのです。

「みんなから馬鹿扱いされても、だからといって自分の信念をあきらめてはいけない」(浅田次郎)

アルコール、除菌、マスクの仲間の経営塾より