『ただ生きていく、それだけで素晴らしい』

五木寛之

「生きる目的がわからないんです」私の講演会では、まれにですが、最後に質疑応答のコーナーを設けることがあります。そのとき、こんなふうにおっしゃる方が少なくありません。私はその方に、「生きるうえで目的は、果たして必要なんでしょうか?」と問い返します。なぜならこれまで生きてきた中で、そういったものはないんじゃないか、とひそかに感じているからです。
そして目的がなくても、生きているだけでもう十分に素晴らしいと心の中で思うのです。「生きる」とは、それだけで奇蹟と言ってもいい。

「一本のライ麦」の話をしましょう。アメリカの生物学者、アイオワ大学のディットマー氏が行った、実に面白い実験の話です。小さな四角い箱に土を入れ、一粒のライ麦のタネを育てます。水をやりながら四ヵ月ほどしますと、ライ麦の苗がヒョロヒョロと育ちます。小さな箱で栄養も足りないんでしょう、ひ弱で頼りない様子で、もちろん穂も大きく育ちません。その頼りない苗を箱から出して、土を払い落し、根がどれくらい育っているかを物理的に計測します。見えないほど小さな産毛のような根毛も顕微鏡で計測しますと、なんと全部で約一万千二百キロメートル以上の根を土の中に張りめぐらしていた…。そこから必死の思いで栄養分を吸い上げながら、その小さないのちを保っていたのです。

生きているということは、実はそれだけの目に見えない根によって支えられているということです。小さなライ麦でさえそうなのです。私たちはライ麦よりも複雑で大きいうえに、何十年と生きていきます。もっともっと長い根がこの宇宙に張りめぐらされて、私たちを生かしてくれているのではないでしょうか。その根の広さ、大きさというものを考えると、気が遠くなるような気がします。

人間は、自分で生きているつもりでいても、自分だけで生きているのではない。一個の人間として生きるために、気がつかないところで大きなエネルギーを消費しながら、今日一日を生きているのです。そう考えますと「生かされている自分」と言うことすらおこがましい気がしてきます。「生きている」。それだけで十分なのではないのか。もちろん生きる目的や目標を持ち、何かを達成することは素晴らしいことだと思います。
しかし、達成できなくても素晴らしい、そう考えてほしいのです。

私たちは生きているだけで価値のある存在です。生きるというだけですでに様々なことと闘い、懸命に自己を保ち、同時に自然と融和している。悩みのたうちながら、毎日を生き抜いている。そんないのちの健気(けなげ)さを思うと感動を覚えます。まずあなたのいのちの健気さを、自分自身で認めてあげてほしいと思うのです。

アルコール、除菌、マスクの仲間の勉強塾より