『「ずぼら」人生論』

ひろさちや

大学にいた頃、ある学生がわたしのところに相談にきたんです。学校を辞めて、別の大学を受け直そうか、このままとどまろうか、悩んでいるというわけです。気持を聞くと、辞める、とどまる、どちらも五分五分だという。くどいほど念を押しましたが、どちらかに気持が傾いているということはない、と断言するんです。
それなら、とわたしはサイコロをとり出して、偶数なら辞めなさい、奇数ならとどまりなさい、とやったわけです。そのとたん、「先生、ふざけないでください!わたしは悩みに悩んで相談にきているんです。まじめに聞いてください!」ときた。
わたしは説明しました。「あなたが辞めたほうがいいのか、とどまったほうがいいのか、わたしにはわからない。それがわかる人なんていないんだよ。いくら迷ったって、悩んだって、答えは出ないんだから、さっさと決めてしまって、辞めるんだったら、ほかの大学を受ける準備を始めればいいし、とどまるんだったら、もう辞めようなんて迷いは吹っ切って、ここで一所懸命やればいいんじゃないの」どうにも答えが出せない大事な問題こそ、サイコロを振って決めればいいんです。

サイコロで決めるということは、仏や神に決めていただくということなんです。決めていただいたら、そこが生きる場所なのだから、やるべきことをやればいい。「俺の人生、仏なんかに決められてたまるか」と言うのなら、好きなだけ悩んだり、迷ったりして、時間を浪費するしかないですね。人生の大事な決定は、たいていは右か左か、やるかやらないかの二者択一です。そして、悩みに悩んだ末の選択は、どちらに転んでもそう大差はない。神戸の近くの有馬街道に「右も左も有馬道(ありまみち)」という石碑がたっている。「どちらを行っても最後に合流する」という案内だ。どちらに決めようと、結局は有馬道のように、同じ道に行き着く。松下幸之助翁のように、学歴がなかったことが成功につながったと思う人もいれば、いい学校へ行ったが、一生不平不満を言って暮らす人もいる。学校に行こうが行くまいが、どちらの道でもよい、すみやかに右か左かに決めること。
そして、決めたら、あとは迷わず決めた道を、ただひたすらまっしぐらに進む。「決めること」はどちらかを斬って捨てること。悩みを引きずることは、悩みを楽しむことと同じ。大事なのは、決めたあとの心の持ち方だ。

アルコール、除菌、マスクの経営塾より